Southern Mongolian Human Rights Information CenterSouthern Mongolian Human Rights Information Center
HomeAbout UsCampaignsSouthern Mongolian WatchChineseJapaneseNewsLInksContact Us

 

< 戻る >

一が多いか、十が多いか

2009年10月3日

www.lupm.org

 

 

「内モンゴル人民党を掘り出す事件」の本質を問う

オルホノド・ダイチン 

「一が多いか、十が多いか」の小学校低学年の子供たちも解ける簡単なことである。算数問題として考えると、一が十より少なくて、十が一より多いに決まっている。しかし、世の中のことや現実に対するとき、上の問題をどのように理解するか、どのように解説するかはとても重要で、物事の性質、本質を理解するのに非常に大切である。

私が小さい頃の一九八〇年代前後、故郷の内モンゴルで、「一が多いか、十が多いか」という笑い話が話されていたことを、未だに覚えている。

私の故郷は「半農半牧」地域に当たるが、農業を始めてから、それほど時間は経っていない。一九八〇年代は中国の「改革解放」の政策のもとで、土地の使用権を農民に与えたときであった。そこで、一人のおじさんが、自分の分けてもらった田圃にトウモロコシの種を蒔き、伸びてきたトウモロコシを粟のようにそのまま残しているのを隣人が怪しんで、「トウモロコシは少し距離を置いて植えるものではないか」と聞くと、そのおじさんが「一が多いか、十が多いか」と問い返したという。

「一本のトウモロコシから多くても一つか、二つぐらいしか実が成らない。だから、トウモロコシを一本を残すところに十本残すと、一本のトウモロコシから少なくとも一つぐらいの実が作れれば、こちらの方が収穫は多くなり、勝ちではないか」というのが、あのおじさんの考え方である。

聞いたときは、そのとおりと思ってしまうが、農業が分かる人に聞けば、とんでもないことだろう。粟を作る方法とトウモロコシを作る方法は明らかに違っていて、トウモロコシを作るとき、もし二本の苗の間にある程度の距離を置かないと、トウモロコシの伸びだけではなく、収穫にも影響する。トウモロコシを作るとしたら、一本を残すところ十本を残しても収穫が多くなるのではなくて、逆に悪くなるのである。

私はここで、あのおじさんを、農業のやり方も分からないばか者と言おうとしたのではない。農業を始め、まだあまり時間が経ってない人によくある一般的な間違いと理解することができる。討論したいのは、「一が多いか、十が多いか」のことである。

上の笑い話から分かるのは、一本のトウモロコシを作るところでは、やはり一本のトウモロコシを作るのが、十本のトウモロコシを作るよりよい。その場合、十が一より多いといって、一本のトウモロコシを作るところで十本作っても、とんでもない馬鹿なことになるしかない。同じ条件での一と十を比べても、条件が違えば、一と十の比較はまったく違う結果が出てくる。すなわち、ものことの表面だけ見て理解するのと、本質を分析して理解することとは、全然違う結果が出てくるということである。 

人口が十三億人以上もいる中国で、共産党政府のマス・メディアは、ものことの性質・本質論じるより、どうしても表面の数で論じるのが目立つ。公務員から有名な知識人や学者まで、どんな場合でも、皆がこういう口ぶりである。

ここで一つの例を挙げると、去年の『文藝春秋』九月号の「北京五輪日中大論争」に出席した中国人民大学国際関係学院副院長の金燦栄は、

「・・・いま世界の人口は毎年七千万人規模で増えていて、〇八には六十八億人になると推測されますが、そのうち欧米や日本を含む西側諸国の人口は、多めに見積もっても約十億人に過ぎません。今回の北京五輪にまつわる諸問題は、この十億人のなかの一部が作り出したものなのです。しかも、これらの批判的意見は、マスメディアを通じて世界中に十分に伝達されました。しかし、残りの五十七億人以上の声は、国際世論に反映されていません。まして西側諸国のなかにも、北京五輪に対して様々な評価があります。つまり、北京五輪に対して批判的な人々は、全世界の絶対的少数であるといわざるを得ません」

と堂々と論じている。

中国の数えるほど少ない有名大学のハイレベルの知識人が、外国の知識人たちとの討論会でこのように議論している。ものことの性質を人口の多寡決めようとしているわけである。その理屈を見ると、中国以外の国の人は、笑うしかほかに何も言えないだろう。

実はこれだけではない。一九八七年に、ある人が中国の「改革の父」とも呼ばれる鄧小平に、「文化革命」のとき、少数民族の人達がとても大きな被害を受けましたと報告したとき、彼は、「中国に民族差別はない、文化革命中、被害が一番多かったのは漢族である」と平気で話したという。

それで、最近の中国の漢民族の民主化運動家の方々までが、「文化大革命」について論ずるとき、会議や論文、著作などで、ほとんど同じ口調で話すことが多い。彼の言葉から、少数民族が何十万死んだとか、何十万拷問されたという事実は、問題にする必要がないとの本音が聞こえてくる。もっと腹立つのは、われら南モンゴル人の洗脳された人達も、「本当だよ、文化革命での死者は、我々南モンゴル人は多くても十万人に過ぎないでしょう。漢民族の被害数は比較にならない。何百万、何千万という数だ。また、もう過去のことだし、現在は、改革解放のおかげで皆の生活がよくなった」と平気で言う。

「文化大革命」で、漢民族が殺されたことと南モンゴルの人が殺されたことを数だけで比較していいのか。比較するとしたら、どのようにに比較したらいいのか。「文化革命」の時に起こった「内モンゴル人民党を掘り出す事件」過去のことになってとして、これを討論する、議論する、あるいは追及することの意味について、自分の見方を述べてみたい。

一、 「文化大革命」のとき、漢民族の殺された数は、ほかの民族で殺された人の数より多いということは間違いない。ほとんどの論文や報告で、二〇〇〇万人も死んだといわれている。二〇〇〇万は一〇万よりはるかに多い。しかし、考えてみると、二〇〇〇万を一〇万と直接比較するとしたら、先の「一が多いか、十が多いか」の理屈になってしまう。

当時の南モンゴル人の人口は〇万~一しかいなかった。そのとき三人に二人人が「内モンゴル人民党員」と疑われて拷問され、「内モンゴル人民党員」と確定されたのは三万人を超えた。その中で殺されたのが一〇万人であった。計算すれば分かるように、当時の南モンゴル人の一三~一四一人が殺されたことになる

当時漢民族が八億もいて、その中から二〇〇〇万人が殺されたとすると、四一人が殺されたことになる。しかし、この二〇〇〇万人にモンゴル人、チベット人、ウイグル人の数も入っている。殺された人の数を、このような数学の方法で計算するの非人道的思われるが、にはいい方法が見つからない。 

そこで、

① 四〇一人が殺されることと、一三~一四一人が殺されるのと、どちら与えた被害が大きいだろうか。

② 四〇一人を殺すのに十年間かかったとしたら、一三~一四一人を殺すのに大体一年半の時間しかかからなかったことになり、「新しい内モンゴル人民革命党を掘り出す運動」が一九六七十一月から一九六九月まで続いたことになるが、どちらに与えた恐怖が大きいことになるだろうか

この「内モンゴル人民党事件」我々南モンゴル人に一八九一、元ジョサト盟で起こった「金丹道の反乱」を思い出させる。当時も、漢民族の反乱を起こし人達が、四十五日間でモンゴル人を15万人も殺したのであった。いろいろな面でこの二つのことは類似点が多いと言われる。ただ違うのは、

① 「金丹道の反乱」は、清国は倒れようとしていたときで、時代はきわめて不安定であった。「文化大革命」は中華人民共和国建国され、およそ二〇年が経過し、共産主義の平和な時代であった。

② 殺し方が違った。「金丹道の反乱」のときは、漢民族は出会ったモンゴル人を皆殺しにした。「内モンゴル人民党事件」のときは、政府役員、文化人、知識人を始め、一般の牧民、農民の中でも優れた人達を殺した。
 ③ 「金丹道の反乱」の元凶であるyang-yue-chun 、li-guo-zhenなどは最終的に逮捕され、死刑になった。「内モンゴル人民党事件」の元凶であるteng-hai-qingを始めとした人々誰一人も死刑にならなかった。

「内モンゴル人民党事件」の南モンゴル人に与えた被害、恐怖そして、生き残った残人達の心身の負傷は言葉で表現できないほどであった。これをまた、「一が多いか、十が多いか」と議論するのは無益なことではないか。

二、「文化革命」では、南モンゴル人がどうして一七ヶ月間という短時間に一三~一四に一人が殺されたのか、「文化大革命」がモンゴル人与えた被害と漢民族に与えた被害が、どのような性質・本質的な違いがあるのか。

これを、中央政府の南モンゴルに対する政策とみることはできない。中国共産政府内の権力闘争が激しくなった結果、毛沢東をはじめ、周恩来、林彪、江青、康生の五人組み「文化大革命領導小組」ができ、「文化大革命」という運動起きた。共産党中央政府が、ちょうどこの時期を利用して、二〇年間も研究してきた、南モンゴル人を殺戮して、南モンゴルを本格的に侵略する計画を開始したのであった。だから、「文化大革命」のときに殺された漢民族は、権力闘争の犠牲になったのだが、南モンゴル人は中国共産政府の侵略者たちの南モンゴルを植民地にする政策の犠牲になったのである。

なぜかというと、十年間の「文化大革命」が終ると、中国共産政府が、「文化大革命」を全面的に否定したが、南モンゴルに対しては、「文化大革命」が発動されたときに始めて実行された、中国共産党内モンゴル委員会書記の座に漢人が座るという政策を変更しようとはしなかった(一九四九~一九六六年までは、南モンゴル人のウランフーがその地位に就いていた)。「民族区域自治」というのは、ただ一つの飾りに過ぎない。

三、「内モンゴル人民党事件」をもう一つの方向から分析してみよう。

共産党政府が、「文化大革命」は、内乱の状態であったので、ほとんどのことが無政府な状態で行われたと解釈する場合が多い。この理屈で見れば、「内モンゴル人民党事件」も無政府的な状態で行われたことになる。しかし、事実は違う。一九六六年五月二十二日から七月二十五日まで、当時の華北局の会議が北京の「前門飯店」において行われた。会議で、内モンゴル自治区の政府、党、軍のトップであったウランフが劉少奇、鄧小平らに厳しく批判され、ウランフは五つの罪を与えられた。その中の一番重い罪は、「民族分裂反国罪」で、ウランフが軟禁されたが、拷問を受けなかった。しかし、拷問、侮辱は南モンゴル人に広く与えられた。

ウランフの代わりに、内モンゴル軍区の司令官として派遣され来たTeng-hai-qing将軍が会議で、「内モンゴルの人口は千三百万人である。モンゴル人は百三十万人あでる。過去は、この百三十万人のモンゴル人が、千百七十万人を抑圧していた。漢民族そんなに多い、モンゴル人はそんなに少ない。にもかかわらず、漢民族を抑圧している。彼らにこのままで権力もたせていいのか」と言い出した。また「モンゴル人を殺すことを怖がってはいけない、一人を殺せば好漢で、十人を殺せば英雄である」と叫んだ。南モンゴル人に対して、ああいう暴言を吐いて、あんな残虐なことやったのが共産党員で、中国人民解放軍の将軍である。

その後ろに「文化大革命領導小組」の方針と強い後押しがなくて、そんなことは絶対にやれないだろう。こういう共産政府の「正しい政策」のもとで、「内モンゴル人民党を掘り出す運動」は短い一年半の間に、当時の一三〇~一四〇万の南モンゴル人の内の一〇万人を殺し、ほとんどのモンゴル人の心身に傷つけた殺人犯のTeng-hai-qingは「文化大革命」の後でも、鄧小平の保護で何の罪も与えられなかった。一〇万人の南モンゴル人の命が取った者が刑務所に入らないというのが、何を意味してるのか。南モンゴル人の命は一匹の小さい羊の命より安いということなのか。このことから、「文化大革命」のときの「内モンゴル人民党を掘り出す運動」とは、中国共産政府のいうような林彪・四人組の罪ではなくて、「五人組」リーダがやったことで、中国共産政府の方針どおりに行われた、残虐な侵略行為であったと言わざるを得ない。

四、「西部大開発」が中央政府の政策として行われている今日、南モンゴル人が被った「内モンゴル人民党事件」を持ち出して議論すること自体が、意味がないこと、過去のことであるなどの見方は、大きな間違いである。なぜなら、

①「文化大革命」が否定されたが、共産党政府の南モンゴルに対す政策は改善されなかった。「内モンゴル人民党事件」は、当時、周恩来は、完全に否定はしたのではなく、ただの「拡大化」したことを批判したにとどまった。またその一切の責任をTeng-hai-qingに負わせた、一九八〇年代の鄧小平の態度、一九八一年の中央政府「二十八号文書」 と、これに反対した内モンゴルの学生運動に対し、当時の共産党総書記であった胡耀邦と中央政府の対応から、中国共産党政府の南モンゴルに対する侵略主義そのままであることが明らかである。

その手段も、もっとひどくなった。

②中国の一九八〇年代の「改革開放」も、九〇年代から始まった「西部大開発」も、あるいは、「科学的発展」や「和谐社会」のどちらにしても、南モンゴル人の生活にどんな影響を及ばしているのか簡単に分かる。最近の南モンゴルに対し、「放牧禁止」や「生態移民」政策が南モンゴルでは次のような具体的なことになっている。すなわち、南モンゴル人は、自分たちの故郷から強制的に隔離され、また伝統経済から隔離され、モンゴル文化から隔離され、民族の教育から隔離される。結果から見ると、これが中国共産党政府の南モンゴルに対し、過去六〇年間やり続けてきた政策の続きである。

着せられる服はいくら変わってても、中身がまったく変わっていないのである。

< 戻る >

 
 
From Yeke-juu League to Ordos Municipality: settler colonialism and alter/native urbanization in Inner Mongolia

Close to Eden (Urga): France, Soviet Union, directed by Nikita Mikhilkov

Beyond Great WallsBeyond Great Walls: Environment, Identity, and Development on the Chinese Grasslands of Inner Mongolia

The Mongols at China's EdgeThe Mongols at China's Edge: History and the Politics of National Unity

China's Pastoral RegionChina's Pastoral Region: Sheep and Wool, Minority Nationalities, Rangeland Degradation and Sustainable Development

Changing Inner MongoliaChanging Inner Mongolia: Pastoral Mongolian Society and the Chinese State (Oxford Studies in Social and Cultural Anthropology)

Grasslands and Grassland Science in Northern ChinaGrasslands and Grassland Science in Northern China: A Report of the Committee on Scholarly Communication With the People's Republic of China

The Ordos Plateau of ChinaThe Ordos Plateau of China: An Endangered Environment (Unu Studies on Critical Environmental Regions)
 ©2002 SMHRIC. All rights reserved. Home | About Us | Campaigns | Southern Mongolian Watch | News | Links | Contact Us