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南モンゴル人権情報センターからのメッセージ
2011.03.05
Tokyo,Japan
Read by Jargal
私はエンフバトと申します。米国のニューヨークを拠点とする、南モンゴル人権情報センターの代表として、南モンゴルの自由と人権のための運動を支持してくださっている日本の皆様に御礼を申し上げます。また、日本で南モンゴルの人権・自由・自決権のために数多くの努力をしてこられたモンゴル人活動家たちにも御礼を申し上げます。
簡単に自己紹介をさせていただきますと、私は南モンゴルの赤峰市(かつてのジョーオダ盟)出身のモンゴル人で、1990年に南モンゴルの首都であるフフホト市にある内モンゴル大学のモンゴル語モンゴル文学部に進学しました。1994年に大学を卒業後、ある日中合弁会社の日本語通訳として三年間働き、1998年に来日して岡山の吉備国際大学の社会学修士課程に入りました。同年10月に渡米し、現在まで南モンゴルの自由と人権のために活動して参りました。
渡米後、中国の圧政下に苦しむ南モンゴルの同胞のために何かしなければならないという責任感から、2001年に南モンゴル人権情報センターを創立しました。南モンゴルの人権状況を国際社会に知らせるだけではなく、世界中の人々が自由・民主・人権のために、どのような努力をしているのか、国際社会から強制的に隔離されている南モンゴルの人々にも知ってもらうのが目的でした。
過去10年間、南モンゴル人権情報センターは南モンゴルの原住民であるモンゴル人の人権問題、例えば違法逮捕、言論・出版の自由に対する抑圧、強制移住、同化政策による伝統文化・言語の消滅などの諸問題を国際社会に訴えて参りました。
米国下院議会の中国事務委員会に証人として呼ばれ、南モンゴルの人権問題について証言したり、国連原住民問題常設フォーラムなどで南モンゴルの原住民問題について中国政府の国連代表と直接論争をしたりしたこともあります。
南モンゴル人権情報センターは、国連原住民問題常設フォーラムの第一回会議から毎年参加してきましたが、中国における原住民の権利を代表するものとして国連会議への参加が認められている唯一の原住民組織(IPO)でもあります。
南モンゴルの人権状況を世界中の人々に迅速かつ正確に伝えるため、世界中の人権団体・報道機関とも協力して参りました。アムネスティ・インターナショナル、ヒューマン・ライツ・ウォッチ、国境なき記者団などの人権団体、自由アジア放送、アメリカの声、ニューヨーク・タイムズ、ワシントン・ポスト、ウォールストリート・ジャーナル、BBC、ABCなどの報道機関が、南モンゴル人権情報センターの提供する情報にもとづいて南モンゴルの人権問題を何度も報道しました。
南モンゴル人権情報センターが訴えてきた南モンゴルの様々な人権問題の中で、特にハダさんの事件は重要な人権問題として注目されてきました。周知のとおり、ハダさんは中国で15年間の監禁生活を生き抜きましたが,現在も行方不明であります。ハダさんとはいったいどのような人物なのでしょうか。長年の友人の一人として簡単に紹介させていただきます。
ハダさんは南モンゴル東部ヒンガン盟(興安盟)出身のモンゴル人です。1981年に中国政府の民族政策に抵抗して、南モンゴルで大規模な学生デモ行進が行われましたが、ハダさんもこのときの学生運動リーダーの一人でした。
1990年に、私は内モンゴル大学に入学して首都フフホトに上京しますが、ハダさんは当時、内モンゴル師範大学正門の近くで小さなモンゴル語書店を経営していました。奥さんのシンナさんも書店経営を手伝っていました。典型的なモンゴル人学生であった私がフフホト市に着いて最初したことは、学校の近くにモンゴル語書店を探すことでしたが、ハダさんの店に足を運んだのはフフホト到着から一週間後のことでした。
当時はまだあまり慣れていななったホルチン訛りのモンゴル語で話してきた体格の良い男性がハダさんでした。奥さんのシンナさんと違って、話すのがそんなに得意ではない感じでしたが、新しい本をいろいろ紹介してくれたのが印象的でした。聞いたこともなかった本や聞いたことがあっても見たことのなかった本が沢山あったため、この書店の常連客となり、すぐにオーナー夫婦とも親しくなりました。私と同じような他の常連客もよく来ていましたが、彼らとも次第に友人になりました。
1992年になると、ハダさんとの話は書籍に関することだけではなくなり,南モンゴルが直面している諸問題について熱心に議論するようになりました。その結論は、南モンゴルの知識人の組織を創立することでした。南モンゴル民主連盟はその結果でしたが、その目標は:
1.南モンゴルにモンゴル人による高度な自治をもたらすこと
2.南モンゴルに独立したモンゴル人の国家を建てること
3.モンゴル国との統一を国民投票で決めること
1993年から私は独学で日本語を熱心に学び始め、1年間で国際日本語能力試験1級に合格して自信をつけ、外国語への興味も深くなりました。ハダさんは外国語を勉強する私を激励してくれ、「草原の革命家たち」など、珍しい日本語の本を紹介してくれました。ハダさんは何回か、南モンゴル民主連盟が外国人と接触してゆくために、私の語学力に期待していると言ってくれました。私たちの活動を中国当局が注視し始めていることに気がついていたハダさんは、何かあったときに私たちの状況を国際社会に知らせることが重要になるという理由から、外国語の得意な私を南モンゴル民主連盟の正式なメンバーとはしませんでした。
その頃、南モンゴル民主連盟の機関誌として「南モンゴルの声」が極秘裏に出版されました。雑誌に掲載する日本語資料をモンゴル語に翻訳したり、他のメンバーが書いた文章を整理したりするなど、私も編集の仕事を手伝っていました。モンゴル人学生向けに出版されたこの雑誌の内容の大部分は南モンゴルの民族問題についてでしたが、米国独立宣言や国連人権宣言などの世界の重要文献のモンゴル語訳も掲載されていました。やがて、南モンゴル民主連盟のメンバーが増え、活動の輪が広がってゆくにつれて、中国当局の監視も厳しくなり、ハダさんの書店に集まるモンゴル人学生や知識人たちも、皆そのことに気づくようになりました。
1994年7月、私は大学を卒業して日本語通訳として就職しましたが、仕事が終わったあとはハダさんと頻繁に会っていました。書店で話すのは危険なので、ハダさんと私は、いつも師範大学付属中学校の構内を歩きながら話していました。
1995年9月、私はフフホト市から遠く離れた臨河市に仕事で長期出張することになりました。出張前日にハダさんの書店を訪れ、いつものように師範大学付属中学校の構内を散歩しながら話しました。ハダさんは何かあったら国際社会に訴えることが大事だと強調していました。それは何かを覚悟していたかのような感じでした。その後、4ヶ月の出張で1996年2月までフフホトに戻らなかった私にとって、この時がハダさんと話した最後の機会になりました。
新しいカシミヤ工場建設のために日本から来た専門家たちの通訳として忙しく働いていた1995年12月11日の夜、フフホトにいた友人からの電話で、南モンゴル民主連盟が鎮圧され、主席のハダさんが逮捕されたことを知りました。副主席のテグシさん、メンバーであったハスバガン、ヘイロン、トクトンバヤル、チンハイシャン、バイチャンミン、それに奥さんのシンナさんも逮捕されました。中国当局の違法な弾圧・逮捕に反対するために数百名のモンゴル人学生を集めてデモ行進をしたことが逮捕の理由でした。
このような人権抑圧の状況を直ちに国際社会に訴えなければと慌てましたが、外国に一度も行ったことのない私は、誰に訴えればよいのかも分かりませんでした。雑音で聴きにくい海外の短波放送を通じて、いくつかの人権団体の名前は知っていましたが、連絡する方法もありませんでした。このとき、国際社会に南モンゴルの人権問題を国際社会に訴える団体の存在が必要であると痛感しました。何もできない恥ずかしさと、逮捕されるかもしれないという恐怖の中で旧正月の休暇を迎え、1996年2月、仲間たちの現状を知るためにフフホトに戻りました。
逮捕された数十名のメンバーのほとんどが監禁中でしたが、シンナさんは何回か拘束された後で家に戻っているという朗報を聞きました。夫婦二人で経営していた小さな書店「モンゴル学書社」は、「民族分裂主義者たちの巣窟」として既に強制閉鎖されていました。モンゴル人学生が集中している大学周辺には警察が増え、冬休みにも関わらず相当緊張した雰囲気が漂っていました。モンゴル人たちはハダさんや南モンゴル民主連盟のことを口にすることも恐れ、逮捕されていないメンバーと街の中で会っても挨拶すらしないような状態でした。モンゴル人が大量虐殺された文化大革命を直接体験したわけではありませんが、そのときと何か似ていたのではないかと思いました。
私と似たような境遇で、南モンゴル民主連盟のメンバー間の連絡を担当していた現在スウェーデンに亡命中の友人らと一緒に、何度もシンナさんに会いに行きましたが、今ふりかえってみると相当な危険を冒していたと思います。
やがて、ハダさんが内モンゴル第一拘置所にいることが分かりました。罪名は国家分裂罪とスパイ関与罪でしたが、家族の訪問は禁止され、弁護士を依頼することも拒絶されていました。シンナは請願書を何度も当局に提出しましたが、ことごとく無視されました。ハダさんとテグシさん以外の逮捕されたメンバーは、長くて半年程度の監禁や労働改造により罰せられました。「民族分裂主義者」たちを厳しく押さえつける一方で、出来るだけ問題を拡大させなかった背景には、南モンゴル問題が国際社会に知られないようにしようとする中国政府の慎重な計算があったと思われます。
1996年5月、友人から電話があり、次の日にハダさんの裁判がフフホト中級人民裁判所にて行われることを知らされました。私は1日間の休暇をとってフフホトにおもむき、裁判を傍聴しようとしました。裁判所の前には、公開裁判と聞いていたモンゴル人の学生・知識人らが200人以上集まっており、やがて警官や私服警官も増えて緊張感が高まってきました。午前10時頃、警察車輌が裁判所の前に止まり、4人の警官に囲まれて手錠をかけられたままのハダさんが降りてきました。集まったモンゴル人たちが駆け寄ろうとしましたが、すぐに警官らに止められました。最前列にいた私が5メートルくらい離れたところにいるハダさんに向かって「皆あなたを支持していますよ」と叫ぶと、ハダさんは微笑みながら「心配しないで」と答えました。警察はハダを裁判所の裏玄関の方に連れて行きましたが、それが、私にとってのハダさんの最後の姿でした。
裁判所の傍聴席はシンナさんも含めて集まったモンゴル人で満席となり、皆がハダさんの裁判が始まるのを待っていると、出てきたのはハダさんとは関係のない10名くらいの刑事犯罪と経済犯罪に関する被告人で、ハダさんの裁判はそのあとだと言われました。裁判は12時頃まで続き、次こそはハダさんの裁判が始まるはずだと思って待っていると、裁判官が突然閉廷を宣言しました。傍聴席のモンゴル人たちは立ち上がって抗議しましたが、裁判官たちはすぐに後ろの扉から消えてしまいました。皆が裁判所から出ると、ハダさんもハダさんを乗せてきた警察車輌も消えていました。当局は、集まったモンゴル人たちの前で裁判を行う自信がなかったのです。
そして1996年12月、家族も弁護士も立ち会わない秘密裁判で、ハダさんに国家分裂罪およびスパイ関与罪による禁錮15年の判決が言い渡され、ハダさんはフフホトの内モンゴル第一拘置所から南モンゴル東部の赤峰市にある内モンゴル第四刑務所に移送されました。
1997年2月、私はシンナさんからハダさんの判決書や他の資料を受け取り、モンゴル国を経由してドイツに亡命していた内モンゴル人民党のテムチルト主席とヒューマン・ライツ・イン・チャイナ(中国の人権)の劉慶氏にファクスで送りました。ハダさんの資料は、ヒューマン・ライツ・ウォッチとアムネスティ・インターナショナルにも渡り、ハダさんは「良心の囚人」と認められました。
1998年4月、私は日本に留学し、同年6月15日に岡山県高梁市の市民会館で行われた「国連人権宣言50周年記念式典」に吉備国際大学の留学生代表として参加しました。そこで初めて、南モンゴルの人権状況を日本社会に訴えましたが、残念ながら来場者の皆さんは南モンゴルの人権問題に関心を持っていないようでした。その頃から私は渡米する決意を固めました。同年10月にコロンビア大学で開かれた「南モンゴル、チベット、ウイグルおよび台湾の独立運動の討論会」に招待されて渡米し、亡命を申請すると、その翌年に難民認定を受けることができました。
2000年から中国語で「南モンゴル観察」というメールマガジンを発行して、南モンゴルにいる数千人の人々に、Eメールで海外にいるモンゴル人たちの運動状況を伝えました。
2001年にニューヨークで南モンゴル人権情報センターを設立し、その翌年の米国下院議会の中国事務委員会においてハダさんの事件および「生態移民」について証言し、米国国務院年報にもハダさんの事件が記載されました。2004年には国連人権委員会にハダさんの事件を提起しました。ハダさんと家族の状況を国際社会に広く知らせるため、南モンゴル人権情報センターは、「フリー・ハダ・ナウ」および「シンナ・オン・ヒューマン・ライツ」というウェブサイトを立ち上げ、2週間に1回ほどシンナさんや他のハダさんの親戚に電話取材を行い、オリジナルの音声ファイルおよびその英訳テキストを発表してきました。2006年、釈放後のハダさんを経済的に支えるために、南モンゴル人権情報センターの中に「ハダ支援基金」を設立しました。
獄中のハダさんに対しては、日常的に残酷な拷問が行われました。独房監禁は頻繁に行われ、最長で66日間も独房に入れられたこともあります。1998年から2001年にかけて、ハダさんは精神混乱促進剤を強制的に投与され、3年間も精神の異常に苦しめられました。ハダさんの叔父にあたるハスチョルー氏によれば、ハダさんの事件が海外でも注目を集め、国際社会の圧力が強まった2001年頃から、薬が投与される回数は減ったとのことです。また、2001年12月19日には、ハダさんとシンナさんの息子である19歳のウィレスさんが「強盗に関係した」という犯罪を捏造されて、2年間服役させられました。3人家族のうち2人が同時に監禁されたのです。
2010年12月10日、ハダさんの刑期は満了しましたが、まだ家に帰ることができないまま、どこかで軟禁されている状態が続いています。シンナさんもウィレスさんも、釈放日直前に逮捕されて行方不明になっています。
中国当局は、ときどきハダさんや家族の写真や動画をインターネット上に流出させていますが、ハダさんと家族の所在は依然として不明であり、どこかで軟禁されていると考えられます。
2011年3月5日
南モンゴル人権情報センター代表
トゴチョグ・エンフバト
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詳細については、以下のウェブサイトをご参照ください。
南モンゴル人権情報センター(www.smhric.org)
フリー・ハダ・ナウ(www.free-hada-now.org)
シンナ・オン・ヒューマン・ライツ(www.free-hada-now.org/blog)
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