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静岡大教授の楊海英さん 己を見つめ生涯の仕事知る

産経新聞
2012-01-14
 

 毎年2月に開かれる「菜の花忌」。作家の司馬遼太郎さんをしのび、当日は「司馬遼太郎賞」の贈賞式などが行われます。前回受賞した静岡大教授の楊(よう)海(かい)英(えい)さん(47)は、中国・内モンゴル自治区出身の文化人類学者。中国では現在もタブーとされる文化大革命(1966~76年)で、その人生が大きく変わり…。(磨井慎吾)

文革の辛い記憶

 

 3つの名前を持っている。モンゴル名のオーノス・チョクト、中国名の楊海英、帰化の際に付けた日本名の大野旭(あきら)だ。言論活動では「楊」を使うが、好きなわけではないと話す。「帰化の前から楊の名前で書いてきたから。中国の少数民族は中国名を持たないと不便が多く、その意味では植民地的な名前。でも使っていると常に内モンゴルという自らの出身を意識する」

 帰化前の国籍は中国だが、自己認識はモンゴル人。漢民族が支配する中国を祖国とは思わないが、外国では中国人として扱われる。「モンゴル人とは何か」と、考え続けてきた。

 幼少期は常に文化大革命の政治的暴力におびやかされていた。「人民の敵」とされると、裁判をせずに殺されてしまうことも。楊家も、内モンゴルに入植した漢人や、漢人に協力するモンゴル人から、たびたび私刑や家財の略奪を受けた。

 「母が毎晩の(強制参加の)政治集会から帰ってくるたび、『今日はあの人が死んだよ』と教えられた。とにかく、周りの人がどんどん死んでいく。とても怖かった」。恐怖の記憶は、子供心に焼き付いた。

 新しい知識と自由を求めて来日したのに、気がつけば、自身のルーツやあんなに恐れた当時の状況が研究の対象になっている。自身を見つめることが、ライフワークにつながった。

迫害訴える古老

 

 やがて文革が終わり、優秀な成績を見込まれて、名門の北京第二外国語学院大学日本語学科に進学した。「当時は西側の人文科学が解禁されておらず、新知識を得るために日本の本を手当たり次第に読んだ」。日本語は、自由で明るい世界に通じる窓だった。本を通じて、民族学者の梅(うめ)棹(さお)忠夫(1920~2010年)らを知り、民族学や関連分野の文化人類学を学びたいと思ったという。

 平成元年に来日を果たし、国立民族学博物館・総合研究大学院大学(当時は横浜市、現在は神奈川県葉山町)で、松原正(まさ)毅(たけ)教授(現・名誉教授)の指導を受けた。専攻は故郷のモンゴルを中心とした遊牧文化の研究だ。

 文化人類学の研究者として、現地調査の一環でたびたび内モンゴルに帰り、伝統文化を知る古老らへの聞き取りを行った際、どんな場所でも必ずある話題が出ることに気づいた。「昔あった伝統的な生活様式がなぜ失われたかを聞くうちに、どのお年寄りからも文革時代の漢人によるモンゴル人虐殺の話が出てくる」

 だが、中国は漢人支配に不満を抱く多数の少数民族を抱えている。そんな中で漢人の少数民族弾圧の問題を正面から取り上げるのは、政治的に極めて危険なことだった。中国の政治の恐ろしさは、子供のころからよく知っていた。

 しばらくは政治色のない文化人類学者として現地調査を盛んに行い、主にモンゴルの伝統文化について本や論文を書いてきた。一方で、本来の研究とは関係ない文革中の話も記録し続けた。ノートは数十冊に。「子供のころに見聞きした話なので、聞き取りしていてものすごい共感があった。これだけ虐殺の証言が集まってくると、もうモンゴル人として放ってはおけないと思うようになった」

民族の歴史代弁

 平成12年、日本への帰化申請が受理され、懸案はなくなった。21年刊行の「墓標なき草原」は、現地での聞き取りを中国側資料と照らし合わせ、文革中のモンゴル人虐殺が、漢人主導で当局も関与して行われたことを明らかにした労作だ。当時150万人弱だった内モンゴル人のうち、少なくとも10万人が殺害されたと推計する。しかし、責任者は誰も裁かれなかった。中国政府は、この問題を事実上黙殺している。「反論もできず死んだ人たちが、私に記録させ、語らせたのかもしれない。民族全体の歴史を代弁しているのだという重みを感じていた」

 政治活動とは一線を置くが、中国政府からは危険人物とみなされるようになり、故郷にも帰りにくくなっている。しかし、書くことで人生が変わろうとも、自分にしか書けないことがあれば、やらなくてはならない。墓標なき草原に漂う声なき声に応じたのは、モンゴル人として、さらに人としての使命感からだ。

 ――来日当初の思い出は?

 「別府大(大分県別府市)の研究生として来日したのですが、お金がないので最初の1年は読売新聞の新聞奨学生でした。厳しい仕事ですが、学費と食住の面倒を見てくれて、給料も出る。そのお金をためて、翌年に国立民族学博物館に入りました。配達後に新聞を1部もらえるのが一番の楽しみでした」

 ――留学してすぐに天安門事件が起きました

 「6月5日付の朝刊を配達した際、衝撃を受けました。1面に大きく、学生の死体だらけの天安門広場の写真が載っている。すごいスピードで配り終えて、むさぼるように読みました。涙が止まらなかった。殺されているのは漢人だけど、民族の枠を超えて、これは人類に対する犯罪だと思った。事件後、日本人の対中感情が極度に悪くなって、集金のときによく『中国人は嫌いだ』と言われた。そのたびに、俺は中国人なのか、と苦悩しましたね」

〈よう・かいえい〉1964(昭和39)年、中国・内モンゴル自治区オルドス生まれ。北京第二外国語学院大学日本語学科卒業。国立民族学博物館・総合研究大学院大学博士課程修了。平成18年から静岡大教授。23年、「墓標なき草原(上下巻)」(岩波書店)で第14回司馬遼太郎賞。著書に「草原と馬とモンゴル人」(NHKブックス)など。

 

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